良い人として死んでる同志へ

環境に害をあたえない人生にも疲れてきた。

怒りはある。ただ、ああ、そうか。と思う。怒りが湧いた瞬、俯瞰視的な能力で怒りに振り回されている他人をマウンティングする自分のことが好きだ。間違いなくそんな自分には一純粋な感情はやってこない。

たくさん愛を与えたのに、なぜ誰も返してくれないのか。

見返りを考える事が、すでに奉仕の理論崩壊を生んでいることに気づきながら、それでも欲しいという欲に埋まる事が、周囲が見えなくなる自分にとっての唯一の防御壁。

裏表の無いやつがうらやましい

性格って、裏が表がじゃなくて自分が選択した性格だと思う。

起きた事柄に対して、経験則等から自分の行動・感情を脳が選択する事を積み重ねた結果、無意識的にその選択が習慣化された状態。じゃけん意識して継続すれば性格は変えられるはずなのに、出来ん。

自分が構築した理論が対人で全然役に立たん。頭で分かっとっても人に触れ合うと使えん。

相手の会話の意味を捉える方に意識がいった瞬間、無意識の(ストレスになる)選択しとる。

俺が選択したい性格は、周りに良く見られようと努力する姿(表)じゃなくて、エロくて、飲兵衛で、無邪気で、面倒くさがりで、相手を思いやれる姿(裏)なのに。

 

喜怒哀楽かかわらず、起きた事柄に対して無意識に感情を言葉にのせて話せとる、裏表の無いやつがうらやましい。いいやつか悪いやつかはどうでもいい。伝わってくる温度が違う。

最悪なのは、無意識にストレスのかからない選択してる裏表の無いやつ(私の人生ハッピー!!的な)に会った時。そうなりたいけどなれない自分にシュンとなって人見知る。 

 

超ど田舎の長男実家暮らし。

長年にわたる支配的親父(頑亭主関白)のおかげで、自分の「怒」の感情を抜かれ、怒りを感じたらすぐ逃げる癖がついてしもーた。討論やこ出来ん。

なりかけたら「それもそうですね!わかりました!」さっさと逃げて終わり。

俺の感情なんか知った事か。論破しよーとするやつからは逃げる。というか「怒」が無いので逃げるしかない。

30代独身。

喜怒哀楽の「楽」も消えてきた。過去の写真を見ても、久しぶりに飲み会を開いても、あの頃の「楽」が味わえない。昔は飲んで、エロ話して、旅行して、とにかく楽しかった。些細な出来事が楽しかった。

親友はいつになっても、どれだけ離れても親友。それはそう思う。

「楽」が無い状態が習慣化して、そのセンサーも馬鹿になったか。

 

喜怒哀楽を自由に表現することが出来たら、幸せな世界に変わるんじゃろうか。

どうしたらええんかな?